2022.12.29
その語源が未だ分からない。鶴見半島の最高峰ワルサ山(265m)の事である。半島が最も細くくびれたところにある猿戸から間越への標高僅か50mほどの峠から尾根伝いに登る。猿戸は国木田独歩が佐伯の名士達の鹿狩りに同行し下船した場所である。その当時はどこを眺めても段々畑やこれを囲うシシ垣が見事な景観を呈し独歩も感銘を受けたに違いない。
その峠から鶴御崎まで約5kmの自然探勝路(尾根道)が拓かれていてワルサ山への登山道はその途上から分岐している。以前、その探勝路沿いにあるシシ垣を目指したが中々出会えず途中で引き返していた。ワルサ山にも登っていない。
キリシタン大名であった佐伯藩祖毛利高政は私費で聖堂と大修道院を建立したと伝わる。イエズス会のサン・ヨゼフも城下に聖堂を建立したと記録にある。
この半島に切支丹聖堂跡が残っている。高政は地松浦の「松ケ谷清水」に目保養によく滞在したらしいが、礼拝の為に船で密かにそこに通ったのではないかと伝わる。ワルサ山の麓、猿戸と同じ湾の北側にある広浦の「的場」と言われる山中の窪地が聖堂の候補地である。多数のキリシタン墓も出土している。
有明浦の日野浦の側の宇土山砦跡もそうではないかと言われる。砦の麓近くにキリシタン墓が集められて荒れ放題の史跡も残っている。日野浦は踏絵を拒否し火刑に処された清太夫一家が住んでいた集落である。
ワルサ山の北東の麓の丹賀浦でもキリシタン墓が見つかった。そもそも丹賀という地名がキリシタンを体現しているといわれる。こちらは天草の乱で落ちてきたキリシタンが住み着いたとも伝わるが真偽の程は心許ない。
以上の全てが途中で訪問を断念し納得しないままにあった。このまま年を越してしまうのも釈然としない。だからつい半島まで車を走らせた。
宇土山砦跡には少なからず驚いた。見事な石垣遺構が整然と残っている。ただ聖堂を設けるには目立ち過ぎる場所である。堀切もある。砦の機能が勝るのではないか。かつてこの半島一帯を薩摩水軍が襲った。住民を捕らえ処刑したと伝わる「処刑場」という地名も伝わる。だから半島に砦があってもおかしくない。
ワルサ山への分岐路をうっかり見落とし丹賀浦辺りまで探勝路を進んだ。途中から圧倒的なシシ垣が先へ先へと誘ってきたから引き返せない。城郭土木でいう「切岸」や「堀切」と見紛う圧倒的な遺構も上下を繰り返す尾根道に残っていた。大満足である。ただ、滑りやすい柔らかな落葉に倒木、散乱する落石、至る所猪の掘り起こした跡、道は荒れ放題である。
流石に途中から引き返したが迂闊にもここでも道を誤ってしまった。シシ垣の形状、地表面の有り様、急勾配と明らかに違う道だと気付いた。後戻りしたがどう進んだらいいか判断がつかない。そのまま進む事に腹を決めた。どんどん急峻な下りになる。右手のシシ垣(段々畑の縁か)は仰ぎ見るように高くなっていく。まるで崖そのもので這い上がれる高さではなくなってきた。森も暗くなってくる。「切岸」なんて得意振っている余裕がなくなってきた。ずり落ち転ぶことしきりで、それでも半島南側の間越に出るはずだと信じて下り続けた。何と反対側の丹賀浦にワルサ山の谷筋から吐き出された。くれぐれも山を侮るなかれ、である。
そこから猿戸の峠に停めた車まで寒風の海岸をひたすら歩いた。荒れ気味の海上遥か蒲戸崎の白い岩壁と高平山、彦岳が常に視界にあり景色は悪くない。ただ足は重い。ワルサ山に登るどころの話ではなくなった。
その海岸道の一角に「ワルサ」という地名を地図上に見つけた。間違いなくワルサ山の語源であろう。そういえばキリシタン集落があった日野浦には「隠れ里」や「テンス」という聞き慣れない地名が残っている。吹浦にも「アチカ坂」という妙な地名がある。「ワルサ」もキリシタンに起因する地名に違いない。そう結論付けないと今回の苦労が報われない。