僻南のまほろばを歩く

佐伯地方は宝の山と海、本当のまほろばはここにある。

歩く道紀行:因尾盆地を歩く

 フィールドワークを介して大分県山岳連盟元会長と全日写真連盟大分県本部委員長に面識を得た。前者はロッククライミングには「本匠の岩場が日本一」だと言う。後者は「庚申塔など信仰物が佇む自然風景は本匠が一番」だと言う。朝に前高洞穴で前者に遭遇し、夕に後者と面識を得て断崖の庚申塔に案内した。共に足繁くこの地に通っている。

 これまでのフィールドワークを通じて何となく感じていた視点である。外部の専門家に指摘されて腑に落ちた。それこそ、まさに「ここにしかないもの」なのだ。

 今回は地元の方の案内で「因尾盆地(因尾、堂ノ間)」を探訪した。言い伝えの通り、かつて豊かな文化を醸成して来た地としての痕跡に溢れていた。叢中に次々と見事な石塔が現れ里の家々は見事な石積みで守られていた。下流の旧中野村ではあまり見られない光景である。豊かな資金と高い文化が所在した事を見せつけられたような気がする。この豊かさをもたらしたものは何だったのだろう。

    

 偶然出会った地元民との立ち話を通じて野津に至る「茶売り道」の登り口が分かった。尾根に至る山中にはところどころ石の階段が設けられているという。大切にして来た道だった事が窺われる。その登り口あたりを指さして、あそこには野津に多くこの地にはそこしかない苗字の家があるという。長い交流の証である。

 今回は訪問出来なかったが、野津に至る別の谷筋を登って行くと「関所渡橋」がある。その名の通り臼杵藩と佐伯藩が接する交通の要衝であった事が分かる。その手前には「鐘撞堂、釈迦堂」跡がある。今は盆地に建つ「瑞祥寺」が開基された場所である。この辺りが野津からの盆地への文化の注ぎ口だったに違いない。

 つまり、この盆地の民俗にみる歴史は番匠川下流を向いていない。大野川流域との交流を優先して来たのである。里に散見出来る石積みは大野川流域に残る石造アーチ水路橋に通じるものではなかろうか。高い技術が見て取れる。

 大庄屋の置かれていた松内集落に殿様も使った旧道を探し当てた。巡検記録にある通り、上流から伸びて来た旧道が河床に降りていた。対岸に渡ると下流に向けて旧道跡が微かに地勢に残っている。その旧道の先には前高神社がある。

 殿様は前高神社に参拝している。そこからまた渡河して下って行った。前高神社の参道は河床を横断している。河床そのものが参道である。鳥居から振り返ると対岸に使われなくなった階段が川原まで降りていた。昔はこの川原に出店が立ったという。普段は涸れ川である。河水は伏流水となって下流の井ノ上で湧き出てくる。多分、当時も水が無く一行は濡れる事もなく渡れたに違いない。何しろ遥か昔に上流の「ひんこ(八エ淵)」で弘法大師が錫杖を川に突き立て水を止めてしまったのであるから。

 

 前高神社と三竈江神社は平家落人(光国光世兄弟)を祀る。案内役は松内集落の天神様を祀る谷の入り口を指さして、この谷の山向こうは小川集落のセリ(地名)だという。伝承では平兄弟はセリから因尾盆地に逃れて来た。以前、小川集落の最奥の谷筋を遡り、平兄弟ゆかりの「牛の頭大明神」を探し求めたが諦めて引き返した。そこから見上げると遠く山が分かれて明るい空が広がっていた記憶が蘇って来た。この谷筋に繋がっていた訳だ。何故かその時、平兄弟は伝承上の人物ではなく歴史上に実際に存在した人物だと思った。

 

 さて、この盆地の豊かさは何によるものだったのか誰も告げてくれない。良質な「佐伯白炭」を産出したからなのか、山茶由来の薫り高い「釜炒り茶(因尾茶)」によるものなのか、はたまたこの地でその人工栽培方法が生み出された椎茸によるものなのか。広大な山林が、山向こうの大野川流域の高い文化地との交流を通じて生み出したものに違いない。

 夕に案内した日本写真連盟大分県本部委員長は佐伯市の教育委員長だった方である。曰く、「教員は県南に居着く」。

 佐伯地方の人々は並べて誠実で嘘をつかない。この地に入れば人は帰りたくなくなる。庚申塔を含む信仰物や神仏を敬う行事の豊かさ、父祖達が連綿として紡いで来た信仰心の厚さの故だからに違いない。ここにしかないものをまた一つ加える事になった。人そのものである。