僻南のまほろばを歩く

佐伯地方は宝の山と海、本当のまほろばはここにある。

歩く道紀行:「白い旅」三股と宇津々を歩く

 久留須川を挟んで大良集落と長崎集落がある。笠掛から通じている峠道は大良の庵跡に下りてくる。峠下には金毘羅様が祀られ(今回訪問せず)、庵跡脇に六地蔵が待っている。西南戦争薩軍もこの道を下って撤退していった。庵跡には見事な庚申塔二基(青面金剛)と無縫塔がある。無縫塔はこの庵で寺子屋を開いていた僧虎山玄無を弔う為に寺子が立てた。大良の西はずれにある天神社の裾にも13基の庚申塔が集められている。すべて文字塔である。

 昔は板橋であった沈下橋を渡り長崎に出る。久留須川が大きく湾曲して囲うように河岸段丘があり、その上に集落がある。その中ほどの畑の端に重制石幢と経王一石一字塔が立っている。更に段丘の突端の霊気漂う(地元曰く)林の中に無縁墓らしき石造物が数基残っている。川を渡り直川三又地区に出る道の辺りを仏のツルと呼ぶが、ここは昔から縁起の悪い場所(変事発生)と伝わる。二体の地蔵が祀られている(訪問せず)。

 両地区は大竹姓の集住度が県下で最も高い。その来歴に興味が尽きない。

 長崎から久留須川左岸の崖沿いの旧道を通って深瀬集落に戻る。深瀬に入る手前の山裾に墓地跡があり数多くの墓石が残る。この辺りも霊気を感じる場所(地元曰く)で転落事故が多い。そこから谷筋を渡ると庚申塔に出会う。この谷を登っていくと牛頭大王が立っているはずである(未確認)。この谷道は三股越に繋がるはずで、その尾根下にはかつて茅場があった。 

 深瀬には京都からの落武者が棲みついたようである。旧墓にそう刻字されており墓を移す時に刀と鎧が出て来た。深瀬集落の神社(今は所在不明)にこれを奉納したが盗難にあったとのことで落武者集落を証明する術がなくなった。

 安説(アゼツ)に移動する。加賀の尾と呼ばれるところに薬師庵(佐伯八十八カ所66番)がある。ここに多種の石造物が集められている。加賀の尾の名前の由来は加賀白山妙理権現が顕現したことによる。下三股の森畑に元宮(場所不明)を祀り白山神社を立てた。薬師庵には30余基の石塔があり、中でも御影石による三基の庚申塔は貴重である。血盆経一石一字塔は県南に3基あるのみ。

  

 下三股の白山神社は由緒がある。佐伯惟定が建立した佐伯12社の一つである。また、毛利高慶が奥室の病気平癒を祈願した。快癒に伴い巻物、宝刀を奉納している(焼失)。平癒記念に植樹した巨大な樅の木が今も残る。境内の石灯籠、狛犬も見事なものである。

 鎮守の杜の下、下三股への入口辺りをフダバ(高札場)と呼ぶ。この山裾に庚申塔が一体ある(昔は参道前の道脇に立っていた)。かつては笠掛から久留須川の板橋を渡りフダバを通り、白山神社を見上げるように峠(宮の越)を越えて波寄(松ケ迫)に渡った(旧本道)。国木田独歩もこの旧本道から三股越を辿り銚子八景を訪れた。集落の奥、三股越への登り口の辺りに石垣に嵌め込まれた一石六地蔵(訪問せず)がある。更に登っていくと山腹に石造物(不明)があると聞く。独歩も目にしたに違いない。

 

 昔は白山神社脇の宮ノ越から長畑に出て松ケ迫に渡り長ノ分から宇津々谷に入った(今の赤池の上を通る道は江戸期は通じていない)。宇津々(筒の形になった場所、宇筒)の谷筋は最奥の冠岳越から旧大野郡川登村に出る物流の道でもあった(野津市に通じる)。この峠を越えて野津(かつての日本最大の切支丹地)から切支丹や宣教師も入って来た可能性が高い。異人を匿ったとの伝承がある。久留須川の名称も切支丹由来と考えられる。西南戦争薩軍もこの峠から逃れて来た。宇津々で人質をとり波寄(原)から三股越(?)を通って直川千又まで逃れて行ったとの言い伝えがある。

 谷の中間当たりで急峻な石灰岩の尾根が右手から落ち込んで来る。その尾根に旧石器人で話題となった聖岳洞穴がある。成人男性一体、女性二体、子供一体の近世の骨も出た。何者であったのであろう。天神橋を渡ったところからその尾根をやや登ったところに火伏の神、秋葉様(訪れず)が祀られている。対岸の傾斜地にある由布集落の細道を登っていくと水天宮と庚申塔3基が並んで立っている。水天宮脇の急斜面を小川(水が涸れている)が下り落ちている。

 更に谷を奥に進むと宇津々川右岸に見事な石灰岩塊が露出している場所に愛宕神社がある。つい数年前までは杖踊りが奉納されていた。境内の岩壁側にはお頭様(佐伯惟治供養塔)が祀られている。神社脇からは小半へのイトリ越が通じ、その途中の岩の上に石槌神(訪れず)が祀られている。一帯は山岳信仰・修験の神(聖岳、秋葉様、石槌神、愛宕神)が一堂に集う何とも不思議な空間である。

 最奥の山口集落はかつて家火事が頻発し八幡地獄と呼ばれたそうで、地蔵庵(65番)に市木地蔵を祀り盆踊りを奉納、火伏を行った。庵には県下唯一と伝わる珍しい経王二字一石塔がある。その近くにはフルドモリ(地名)庚申塔がある。40基ほどの庚申塔中、17基が刻像塔(青面金剛)でギュウギュウ詰め状態であるが圧巻である。いずれも見事な刻像塔である。

  

 最奥の山口集落から冠岳越へと登っていく谷筋が宇津々渓谷である。三つの滝(元宮、鼓石、二本松)がある。元宮滝に元宮様(訪れず)が祀られている。山口から聖岳尾根に宇津々越が通じ風戸高蘇に出る。高蘇にはかつて氷倉があった。氷は宇津々の奥、マンガン山の下の下払(地元ではうしろのひら)で造っていたとのことでこの峠越えを運搬に使った。麓には武士墓と伝わる古墓3基がある。

  

 宇津々は戦国期佐伯氏の家臣が帰農した谷である。苗字(高畑、染矢など)からもその事が窺われる。この筒状の狭い谷には魅力溢れる民俗文化が凝縮されている。