2024.05.13

「御番所の鼻」、船舶航行を監視する佐伯藩の番所のあったところで番匠川河口の右岸突端の名称である。その東隣には出航する大型帆船が風待ちした「苦木の港」があった。入港する帆船は番匠川を遡行して直ぐのところにある「灘」に着岸した。大型帆船が係留され賑わった上方への物流拠点で「大船繋」という地名にその名残りがある。積荷を積み替えた小舟が更に上流の「船頭町」の船着場を目指した。
かつてはこの御番所の鼻から対岸を眺めると広大な干潟が広がっていた。「西浜」である。佐伯藩主の別邸「御浜御殿」もここにあった。それほどの絶景地であった。今の「国木田独歩館」はこれを移築したものである。
戦前に海軍航空隊の飛行場建設の為に埋め立てられて干潟は僅かなものとなったが、それでも佐伯地方の九十九浦の中では唯一の特筆すべき干潟といえよう。佐伯湾の絶景を海水面の高さから堪能出来る場所である。河口の汽水域は、鮎、白魚など多種の魚を揺籃して来た場所で壁画の意図はそこにある(はずだ)。西浜の堤防の「佐伯州浜竜宮図」の最大幅は240mに達する。その主題を描いた中心軸が海と川の出会うその汽水域線上にあるからだ。

壁画に出会うまで「州浜」という言葉を知らなかった。氏が壁画を描き始めて五年半、完成までには、まだ二、三年はかかりそうだと淡々と話す。失礼ながら松山千春に少し品を加えたような面持ちをしている。佐伯滞在中には偶然とはいえ振り返ると必然のように何度となくこういう邂逅がある。今は定められた縁だと信じる事にしている。無論、頼もしい我が”shadow manager”の存在が大きい。
雨の日曜日に事務所にお邪魔していつもの悪い癖でニ時間余も話し込んだ。いい色合いの味のある形をした茶碗様のカップに入れられたコーヒーが実に美味かった。氏の来歴を拝聴しつつこれまでの絵画の数々を見せてもらった。画風が一様ではない。こういうのを奔放というのだろう。

その翌日に近くの喫茶店でこれまた美味しいコーヒーを頂戴した後、二人で竜宮図の前に立った。240mを歩いた。その説明に壁画に込められた意図がよく理解出来た。それにしても”雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けず”本業の傍で黙々と壁画をよくも描き続けて来たものだ。いつか完成の時が来るが、サグラダファミリア風にいつ完成するとも分からぬそのプロセスも壁画同様に魅力と言える。
意図せずもいつとも知れずそれが全国区の観光名所になった。そういう成り立ちの観光名所は佐伯地方にはない。まして全国区のものは皆無であろう。ジワジワと人々の口の端に上り広まって行ったのである。氏の強烈なパッションがそれを可能にしたとも言える。何事もそうである。人々が感銘し共感するのはそこにパッションを観るからである。
それにしてもキャンバスとしては最悪だ。ゴツゴツとしたコンクリートブロックで出来た堤防である。その筋目にゴミが詰まり時に雑草が生える。荒天は膨大な土砂や漂着物をこの壁画に集積する。堤防の宿命である。それでもひたすら描き続けて来た。自らが長大な壁画の清掃作業を欠かさずやって来た。アクリル原料の多彩な絵の具は自ら調合する。今も壁画に重ね描きして手を入れ続ける。趣味でやるには金もかかるし労力が途方もない。行政の支援は一切ないという。まさに異端児故なのだ。松山千春の面差しはすっかり修験行者のそれに変じてしまった。

番匠川の河口である。冬の寒風は辛かろう。夏の灼熱は耐え難かろう。壁画の背後にあるそういう労苦を知ると鑑賞態度を改めざるを得ない。自らも口の端となり見守り続けていく事がせめてもの異端への敬意であろう。佐伯のサグラダファミリアなのだ。
佐伯の自然は芸術を醸成するところ、その証明がここにあった。